千葉県浦安市のプロテスタントのキリスト教会

教会をお探しの方へ

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教会に行ってみたいと思っている方。でも、どこに行ったらいいのかわからないという方。聖書を読んでみたい、ミッション系の学校に通っているけれど、もう少しくわしい話が聞きたいと思っている方…。
初めての方が教会に足を踏み入れるのは、ほんとうに勇気のいることだと思います。でもどうぞ、新浦安教会を一度だけのぞいてみてください。しつこい勧誘は、けっしていたしません。いっしょに聖書を読み、牧師の話を聞き、賛美歌を歌ってみませんか。そこにはきっと、思いがけない出会いがあるはずです。

あなたのおいでを、心よりお待ちしています。

はじめての方Q&A

教会は初めてですが、突然行っても大丈夫ですか?予約は?
初めての方もぜひご出席ください。予約はいりません。
費用はかかりますか?
入場料などはありません。献金に関しては次項をご覧ください。
献金はしなければなりませんか?
神様への感謝の思いを献金という形に表して行います。強制されるものではありません。趣旨に賛同の方はどうぞお捧げください。
どんな服装で行けばいいですか?
決まり事はありません。日頃の装いでお気軽にお越しください。
必要な持ちものは何ですか?
聖書(新共同訳)、讃美歌と別冊の賛美歌集を礼拝で使用しますが、貸出用も備えておりますのでご安心ください。
小さい子どもを連れて行けますか?
当教会では、大人も子どもも一緒に礼拝をささげています。どうぞご一緒にお越しください。
賛美歌を歌えないのですが?
だいじょうぶです。はじめは賛美歌に耳を傾けてください。そのメロディと歌詞に触れていただければと思います。
お祈りの時はどうすればいいですか?
目を閉じて手を組み、黙祷の姿勢をとってください。お祈りの最後は一同で「アーメン」という言葉で終わります。
若い世代の人はいますか?
若い世代の方は多くおります。また、小さな子どもから大人まで各年代の方々が集っています。
駐車場はありますか?
教会用の4台分の駐車場のほか、近くのコインパーキングなどをご案内いたします。係にお問い合わせください。
しつこい勧誘はありませんか?
どうぞご安心ください。しつこいお誘いはいたしません。
牧師に悩みを聞いてもらえますか?
ご相談がおありの方には、牧師が時間を設けて個別にお話をうかがいます。お声がけください。

プロテスタントとカトリック教会のちがいについて

プロテスタントもカトリックも、もともと一つのキリスト教会です。今でも、神様の目から見たら一つなのです。それがどうしてプロテスタントとカトリックというように二分されたのか、ごく簡単に歴史の事柄としてお話します。
ざっと2000年前にイエス・キリストが十字架刑となり、三日目によみがえり、40日後に天に帰られ、それから数十日後、天からご自身と同じように共にいてくださる、お約束の聖霊を地上に送ってくださいました。この時からイエスの弟子たちは、「イエスこそ神の御子、救い主」としっかりと信じて、その事実を世界中の人々に伝えるようになりました。これがキリスト教会の始まりです。
この教会が、やがて東西のキリスト教会に分かれるようになりました。この東側の教会を「ギリシャ正教会」とか「ロシア正教会」と言います。そして西側の教会が「ローマ・カトリック教会」です。
この西側の教会(ローマ・カトリック教会)が、教会運営上行き詰って、かなり残念な方向に流れて行ったとき、ローマ・カトリック教会内の修道士の一人、マルティン・ルターが、「聖書に立ち帰ろう!」とローマ・カトリック教会のありかたを批判し、改革の狼煙(のろし)を上げました(1517年、ドイツ)。
この教会改革運動を「宗教改革」(Reformation)と言います。そして、この運動に参加した人々を「プロテスタント(抗議する人々)」と言います。また、プロテスタントの教会は、宗教改革によってカトリックから分かれ、新しく生まれた教会なので、もともと古くからあった「旧教(東のギリシャ・ロシア正教と西のローマ・カトリック教会)に対して、「新教」という言い方もします。
そのカトリック教会も、その後、信仰の姿勢について見つめ直し、今では、プロテスタント教会と合同で聖書の翻訳を行い、『新共同訳』聖書を発行するに至りました。私たち新浦安教会では、その『新共同訳』聖書を使っています。

「改革派教会」と「日本キリスト改革派教会」と「新浦安教会」

新浦安教会はプロテスタント(新教)の教会です。ここで「新教」についてもう少し説明させてください。
1517年、ルターがドイツを中心に「聖書に立ち帰ろう」という宗教改革運動を始めました。それから一世代後に、スイスを中心にさらに徹底した「宗教改革運動」が、ジョン・カルヴィン(カルヴァンともいう)によって展開されました。その結果プロテスタント教会には、大きく分けてルターによる宗教改革の流れをくむ「ルター派教会」と、カルヴィンの流れをくむ「改革派/長老派教会」という2つの大きな流れが生まれました。
「改革派教会」とは、聖書の言葉によって常に「改革され続ける教会」という意味です。そして、新浦安教会は、カルヴィンの宗教改革の流れをくむ、この「改革派教会」に属しています。
改革派教会の特色の一つは、すべての領域において神の栄光をほめたたえることです。単に魂の救いにとどまらず、救われた者が、神さまから委ねられたそれぞれの持ち場、働きの場、学びの場、家庭において輝いて生き、造り主である神の栄光をその人を通して豊かに表すことに、ひとつの大きな主眼があります。
いわゆる宗教的な事柄においてのみではなく、広く科学や技術、政治経済、医学、教育、芸術等々、すべての領域において神の栄光がほめたたえられるようにと努めるのが、改革派教会です。ですから、毎日の生活において神さまに喜ばれる生き方、「善き生活」も、信仰生活の中で意識しています。「困っている人を助ける」「悲しんでいる人を励ましそばに寄り添う」ようにと、聖書は勧めています。それを信仰生活の中で取り組み、実践しようと努めています。
言い換えると、「改革派教会」は、「常に、神の御前に生きること」を目指しています。ですから、以下の聖書の言葉は、改革派教会の目指すところをあらわす代表的なものです。「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(コリントの信徒への手紙一 10:31)。

「日本キリスト改革派教会」という教派は、この「改革派教会(The Reformed Church)に属しています。そして、私たち新浦安教会は、この世界中にある「改革派教会(The Reformed Church)」の中のひとつ、「日本キリスト改革派教会」に属する教会です。
ちなみに、日本における改革派教会(The Reformed Church)の伝道は、江戸時代の長い鎖国の後、アメリカから派遣されて来た宣教師たちによって始められました。「ヘボン式ローマ字」で有名なヘップバーン宣教師もその一人です。彼らは広く教育や医学の分野においても貢献しました。現在のフェリス女学院や明治学院大学などはこうした宣教師たちのまいた種の実りの一つです。

イエス・キリストって?

旧約聖書を経典として持っている宗教は、キリスト教だけではありません。ユダヤ教、イスラム教もそうです。キリスト教はユダヤ教やイスラム教とどう違うのでしょうか。
キリスト教会は、「旧約聖書で、その到来が約束されていた『救い主/メシア/キリスト』は、実は、十字架にかかって死んで、三日目に甦った、あのナザレ出身のイエスです」ということを信じています。「あのイエスこそが、キリスト(救い主・メシア)です」と信じる宗教。それがキリスト教です。

イエス・キリストはどうして、十字架にかかって死ななければならなかったのでしょう?

ここが一番たいせつなところです。古今東西、数え切れないほどの宗教が生まれてきました。いずれも何かご利益(りやく)とか、何かからの救いを説いています。そこでキリスト教ですが、キリスト教は「罪からの救い」がその根幹にあります。
私たち人類はアダムとエバが、「禁断の木の実」を食べて以来、造り主である神の創造の意図に反する者となってしまいました。創造主の意図に反して生きることを、聖書では「罪」と言います。創造主の人間創造の意図とは、「神を第一とすること。それから、隣人を自分自身のように愛すること」の2点です。ところが、アダム以来私たち人類は、神を崇めず畏れず、隣人を自分自身のように愛することができずに、自己中心の塊となってしまいました。ここに罪があります。

この罪の結果、戦争、紛争、もろもろのいさかいや人生苦、そして死という悲しい現実が、私たちを苦しめることになりました。様々に存在するいやなこと、人生苦の根源に「罪」というものがあります。それは、創造主との間で本来のあるべき間柄がねじれてしまったことを指しています。
この神との関係のねじれを、イエス・キリストは回復、修復してくださいました。十字架にかかって差し出された、ご自身の無限の価値ある命の代価で、神と人との間にある大きな断絶の溝を埋めてくださったのです。
神に対する人の罪がゆるされ、神と人との間柄が回復されて、神とともに永遠に生きる者とされるため、私たちの罪を償うために、イエス・キリストはどうしても十字架にかかって死んでくださる必要があったのです。
十字架の死による代償によって、イエス・キリスト神に対する私たちの罪を償ってくださったのです。このことによって「ねじれた」あるいは「断絶」の関係の中で、神に背を向けて歩んでいた私たちが、安心して神に立ち帰り、神と向かい合って生きられるようになったのです。
こうして、命の源であられる神との間柄が回復しました。もう一度、神との関係の中に生きることができるようになりました。そして、この回復された「神と人とのうるわしい関係」は、たとえ死が目前に迫ってきても、また、死のただ中を行く時も、そして、死の向こう側に行っても、決して揺らぐことのない関係です。聖書ではそうした「神と人とのうるわしい関係」の中に生きることを「永遠の命」と呼んでいます。

洗礼とは?

洗礼は入会の儀式です。神の民の一員として、神によって招き入れられている事実を教会の礼拝においてみんなの前でしるしづける儀式です。しるしづけると言っても、それは水を用いての儀式で、形式的には決して大掛かりなものではありません。厳粛ではありますが。
ではどういう人が洗礼を受けるのでしょう。それは、「イエスがキリスト(救い主、神の子、メシア)である」と公(おおやけ)に、自分の信仰を言い表す人です。「イエスがキリストである」という信仰を持つその時に、すでにその人は神の国の一員になっています。神の家族とされているからこそ、そのような信仰告白ができると言ってもいいのです。
神の国の一員にされているのですから、その事を皆の前でしるしづける。それが洗礼という水の洗いの儀式です。この洗礼には自分の心で「イエスがキリストです」と信じて、自分の口で公にその信仰を言い表す人が受ける成人洗礼と、信者の子どもが受ける幼児洗礼とがあります。
幼児洗礼は、信者に与えられた神の約束に基づいて施されます。神を信じる者の子どもは、すでに神の家族の一員として生まれてきているという聖書の約束に基づいての洗礼です。
成人洗礼も幼児洗礼も、神の家族の一員とされていることを表す外的なしるしづけであるという点において、まったく同一のものです。ただし、幼児洗礼を受けた信者の子は、親と教会の祈りと信仰教育の中で育み育てられていく中で、自覚的主体的な信仰へと導かれて行くので、その時は、公に教会員の前で自らの信仰を言い表していただきます。そのことを「信仰告白式」と言います。
もちろん洗礼は、強制されるものではありません。礼拝に出席されたからと言って、洗礼を強要することは決してありません。

どうしたら洗礼を受けられるのですか?

洗礼を希望する方々に対しては、まず第一に教会の礼拝にコンスタントに出席しているかどうか、という点が問われてきます(しかしながら、病気のために礼拝出席がままならない、あるいは職業上、定期的に日曜の礼拝に出席できない、という方はいらっしゃいます。そんな方はぜひ牧師にご相談いただきたいと思います)。教会の礼拝に定期的に出席している方が、やがて自分の願いと意思で、洗礼を受けたいと願い、ついには「イエス・キリストが救い主である」と信じ、その信仰を公に言い表し、洗礼を受けることができるようにと、教会はその方々のために祈っています。
洗礼志願者となった方は、キリスト教の基本的な教理について牧師といっしょに学んでいただき、一定の学びを経た後に、その方に与えられている信仰の内容についての確認後、「洗礼を受ける」という運びになります。
日曜の礼拝に続けてご出席くださること。それがまず第一に求められていることです。また、それが洗礼を受けるための一番の近道です。

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